マルティン・ハイデガー『技術とは何だろうか』読書メモ2

ハイデガーは技術について独特の見方をしていました。普通は技術が作り出すものは、できなかったことできるようにする何か、と考えられていると思います。別の言い方をすれば、今までになかった新しい物を作り出すのが技術だと思われているのではないかと思います。最初にハンマーを作った人は、これで手を傷めずに物を砕くことができると思ったでしょうが、それはそれまでに無かったものです。近代的な工場は、それまでにできなかったような大量生産を可能にしました。ソフトウェアは情報のやり取りが発生するあらゆる領域でそれまでは不可能だった効率化を進めました。最近ではAIが「今まで無かったもの」「今までできなかったこと」を次々と実現しているのを私達は目の当たりにしています。それはまるで無から有が生まれたかのように一般の人びとの目には映ります。

しかしハイデガーはそういうふうには捉えていないようです。ハイデガーにとって技術とは、隠れているものを現前させるものであり、無から有を生み出すような類のものではありません。

では、自然においてであれ、手仕事や芸術においてであれ、こちらへと前にもたらして産み出すことは、どのように生ずるのでしょうか。始動のきっかけとなる四重のあり方が演じられる、こちらへと前にもたらして産み出すことは、何でしょうか。始動のきっかけとなることは、こちらへと前にもたらして産み出すことにおいてそれぞれ出現に至るものが現前的にあり続けることに係わり合っています。こちらへと前にもたらして産み出すことは、隠されたさまのほうから、隠れなき真相〔Unverborgenheit〕へと、前にもたらします。

新しく生み出されたように見えるものは、隠されていたのであり、それが眼前に表れてくるようにさせるのが技術だというのがハイデガーの考えのようです。一見荒唐無稽にも思えますが、「ガンダム」を作りたいと真面目に情熱を持って考えている人が少しでもガンダムに近いものを作ろうと奮闘して徐々に形になりつつあることを思うと、あながちデタラメとも言えない説だと感じます。もちろんこれは人の心にすでに描かれたものについての話なのでハイデガーの言っていることとは次元が異なるとは思いますが、技術とは、無いものを作り出す行為というよりは有り得るものを眼前に表す行為という意味でわかりやすいたとえなのではないかと思います。人の心に思い浮かべることすらできないものは人間が作りだすことはおよそ不可能だろうからです。

また、ハイデガーは技術、つまり顕現させることを、大きく2種類に分けて論じています。一つは手仕事や芸術として物事を顕現させること=ポイエーシスです。もう一つは自然や人を挑発してかり立てて徴用することです。「徴用」という言葉からは搾取的なニュアンスが感じられます。徴用の例として、機械化された食糧産業が挙げられています。「現代の動力機械技術」に基づいた技術や生産は徴用ということになります。徴用は連鎖的で、一つの徴用は別の徴用に依存しています。工場は原材料や別の工場に依存していますし、できあがった商品は流通に依存します。また、徴用は人間自身に対しても行われています。「挑発してかり立てる」という言葉が非常によく表していますが、大してお金を持っていないのに欲望に抗えず条件反射的に不要な物を次々と消費していく現代人はまさしく「徴用」されています。特に広告業は直接的に人間から徴用する産業なので目立ちやすいですが、それ以外の様々な業界もエンドユーザーである消費者から徴用することで成り立っています。消費にかり立てるためには所得が必要なので、消費者は労働者としてもかり立てられ、より良い待遇を求めて就職市場で四苦八苦することになります。

すでにこの徴用の体系にガッチリと組み込まれてしまった人間は、搾取され続けるだけで一生を終えるほかないのでしょうか。これについてハイデガーは以下のように述べています。

顕現させることがたんに人間の作ったものではないとすれば、それはどこで、またいかにして生ずるのでしょうか。私たちは遠くまで探しに行く必要はありません。必要なのは、人間をつねにすでに要求してしまっている、かのものを、先入観にとらわれずに聞き取ることだけです。その要求の断固たるさまたるや、そのように要求された者であるかぎりでしか、そのつど人間は人間でありえないほどです。人間が自分の眼と耳を開き、自分の心を開き、努力に努力を重ね、造形化や作品化にはげみ、懇願と感謝を惜しみなくささげるところでは、どこであろうとあまねく人間はもう、隠れもなく真であるものへと自分が導かれていることに気づきます。その隠れもなく真であるものの隠れなき真相は、人間を呼び覚ましては人間にふさわしい顕現させるあり方をとらせるそのたびごとに、すでに出来事としておのずと本有化されているのです。現前的にあり続けるものを、隠れなき真相の内部で人間なりの仕方で顕現させるとき、人間が応答して語っている唯一の相手こそ、隠れなき真相の言い渡しにほかなりません。たとえ、人間がその言い渡しに反対して語るときでさえ、そうです。

つまり「人間が人間でありえ」るのは「自分の眼と耳を開き、自分の心を開き、努力に努力を重ね、造形化や作品化にはげみ、懇願と感謝を惜しみなくささげる」ときだけなのです。真摯に技術に向き合えば、徴用の体系に組み込まれてしまった現代人でも、単なる徴用ではない技術の一部となることができるような気がしてきます。これは技術者=人間を元気づける文章のように感じました。人間はそもそも自然から「自然を探求する」ということを本能的にプログラムされていて、もとより自然から徴用されています。その本能に真摯に向き合いながらかり立てられるがままに探求すればより良い未来に到達しうるというビジョンが、この文章から感じ取れます。

プログラミングの世界でも、偉大なプログラマーはプログラミングジャンキーとでも形容すべき人びとで、起きている間はずっとプログラミングしています。仕事でプログラミングするのはもちろん、家に帰ってから寝るまでもプログラミングしているし、余暇もプログラミングをしています。そのような人は確かにかり立てられていると表現するのが正しいですし、そういう人が偉大な発明をしてきたと思います。芸術についてもきっと事情は似ていて、寝食を忘れて没頭できる人が優れた作品を産み出すのだろうと推測できます。

現代の高度に産業化した技術について、ハイデガーは両義的な評価をしているように思います。人間の制御の手を離れて自立したかのように見える搾取の体系は、それに飲み込まれるままでいれば人間を不幸にしそうですが、しかし搾取の体系が人間を何かに「かり立てる」ときに、敢えて本気で搾取されてみれば何か新しい未来が待っているのかもしれません。どのみち現代人は搾取されるほかないのだから、同じアホなら云々の理論で、前向きに積極的にかり立てられたほうが心の安定にも繋がりそうです。そのような前向きな現代人の好例の一つが、この数十年はプログラマーだったのではないかと思います。プログラマーは産業社会=搾取の体系の結晶であるパソコンなくしては何もできません。プログラマーはまさに搾取の体系の先端に立って創造的な仕事を行う人びとでした。今後はAIを使って新しいことを考える人がそうなるのかもしれませんし、VR空間で何かを作る人がそうなるのかもしれません。技術に対して「身を開く」というのはそういうことなのではないかと、私は読みました。

業界に対して失望したり腐ったりせずに、新しい技術に興味を持ち続けることが大切だなと改めて感じました。